佐瀬渉
ISBN978-4-89757-877-4
B5版・上製・242頁
【目次】
はじめに
第一章 保科近悳の晩年
一、保科近悳の系譜概略
二、保科近悳の葬送に携わった佐瀬熊鉄について
1、保科近悳について酒井誠仰が投稿の五月二日発刊の紙面
2、佐瀬熊鉄(一瀨熊鉄)のこと
3、寺子屋「安応堂」について
4、鈴木真一写真館について
第二章 保科近悳へ親族からの便り
一、西郷四朗(志田四朗・保科四朗)の養子説と実子説について
1、保科近悳より井深彦三郎へり便り
2、西郷四朗について
3、保科近悳が七十歳になる二年前の便り(下書き)
二、若年寄★西郷勇左衛門近潔(礫州)より保科頼母様宛て
三、系図5★井深八代(八代子・やよ・屋代)井深宅右衛門の妻
「保科御兄上様宛て」の便り 五通掲載
四、系図6★一瀨幾與〔幾與子・幾よ〕戦死した、一瀬要人隆智の妻
「保科御兄上様宛て」の便り二通掲載
五、系図7★鈴木美遠〔美遠子・み越・みを〕鈴木真一の妻
「保科御兄上様宛て」の便り七通掲載
六、伯父上様へ、井深八代の★長女(くに)〔沼沢七郎の妻〕の便り
七、井深梶之助より叔父、「保科近悳宛て」の便り
八、★井深彦三郎より「保科賢叔宛て」の便り
九、甥の★山田重郎からの便り
十、★西郷庄右衛門よりの便り
第三章 松平容保危篤の知らせ(サンミサマ)
一、兵部省(館林藩)より赦免状について・保科頼母外宛て
二、三位様(松平容保)ご危篤、
ホシナチカノリ宛て十二月四日の電報
三、保科近悳より樋口光宛ての葬送についての便り下書き
第四章 保科近悳の遺品
一、『断簡片泉』上巻の内容
松平容保より保科近悳殿・後藤象二郎や山川浩より
保科近悳宛の便りなど二十六紙片
二、『断簡片泉』下巻の内容
保科頼母の日光東照宮禰宜の依頼 など十二紙片
第五章 佐瀬家の会津藩との関わり
一、当村福原村について「福原新田開発最初の様子が伺われる古文書」
二、藩への囲い塩寄進の翌年に代官所へ具申した文書
三、『家世実紀』巻之二百三十九〔寛政二年十二月の項〕の記述
1、会津藩「家世実紀」巻之二百三十九〔寛政二年〕
2、四百拾四両二分の寄進塩囲え、減免の達し、奉行より
佐瀬伝助・風間久太郎への減免について
3、寄進塩囲について風間久太郎への減免について
4、前記の塩代献上のこと
5、覚〔佐瀬家の無役高・面相願高について〕
6、『家世実紀』巻之二百六十七〔享和三年閏三月朔日〕
7、寸志金〔藩主容衆代〕〔文化十三年〕
8、坂下組牛沢組煎りの証文(嘉永二年)七十両
四、福原新田村免相と佐瀬嘉左衛門
1、文久二年、当村年貢
当村の佐瀬嘉左衛門 給田
五、会津藩家老・諸藩士の京都勤番人用金の証文
1、一瀬要人内 2、水野格之助 3、上田一学
4、佐藤蔵太 5、渡邊理兵衛 6、北原采女内
7、若林官平 8、志田貞次郎 9、石田龍玄
10、丹波右近内 11、坂下牛沢両組任役共へ
12、外に(文久二年より京都守護職期間の証文)
13社倉籾入れ
第六章 地方御家人越後表口出陣について
一、小川庄 地方御家人と戊辰戦争・関所守衛出陣について
1、小川庄地方惣人別 2、子弟ニ而御扶持願之人別
3、御人数同様御備ニ相成候人別
4、木本隊江附属越後表へ出陣之病気ニ而帰国仕候人別
5、五月廿三日申渡覚 6、御給田御渡無之人別
7、大竹萬合戦之病気次第 8、覚
9、会津藩越後口関所詰め 10、佐瀬嘉左衛門殿 郡役所
11、覚 御関所守衛御渡金 12、小川庄地方惣人別
13、小川庄触下
第七章 代田組 廃田再興・新田開発に関する文書
一、1、新田開発に携わった文書について
2、廃田再興に関する文書について(下書き)
二、河東町藤倉集落、伽羅陀山延命寺の二階堂
三、代田組の廃田再興・郡山新村に関する書状
1、風間久太郎の書状
2、越国引入百姓人別書
3、佐瀬乙吉の代官所への書状
4、風間久太郎の書状
四、佐瀬徳明(音吉・乙吉)の事蹟について
五、東高野の墾田に関する、藤倉の風間郷頭よりの書状
1、風間久八の東高野墾田についての書状
2、風間久太郎より佐瀬嘉左衛門
3、風間久太郎より佐瀬伝助
4、久八より嘉左衛門
5、風間久太郎より佐瀬伝助
六、東高野墾田の資金援助などの書状
1、覚、(東高野五拾両の内訳)
2、覚、(五拾両見受け貸金)
3、覚、(拾両備金なと)
4、代田組郷頭風間久八と出金
七、風間久左衛門庸篤の墓碑・碑文
八、『鈴木又衛門重之墓』と『東高野墾田之碑文』について
1、鈴木又右衛門の墓
2、東高野墾田之碑文(吉村寛泰の碑文)
3、東高野墾田之碑文読み下し
4、吉村寛泰について
九、西屋敷・本宮(郡山新村)東高野について
十、東高野村氏子系図
十一、東高野村の稲荷神社について
十二、引用資料と諸家文書『会津藩郡政一貫 弐』
1、附札
2、代田組東高野分新百姓(一日分の源之丞)
3、佐瀬家のこと
4、代田組郷頭風間久太郎の上申として佐瀬家を代々検断上席へ
第八章 鶴沼川(宮川)の鮏鱒関係文書
一、寛政四年
1、乍恐書付奉願上候(鶴沼川筋鱒鮏留の儀)
2、乍恐書付奉願上候(鶴沼川筋鱒鮏留の儀)
3、乍恐書付奉願上候(中荒井組和泉村)
4、乍恐書付奉願上候(鶴沼川筋鱒鮏留の儀)
5、乍恐書付奉願上候(中荒井組和泉)
6、乍恐書付奉願上候(若松検役所)
7、乍恐書付奉願上候(若松検役所)
二、青津組青津村生江家文書の鮭鱒に関する文書
1、乍恐書付奉願上候(福原留場より故障)
2、乍恐書付奉願上候(代官所より生江家へ)
3、乍恐書付奉願上候(殺生のこと)
4、乍恐書付奉願上候(取締方より生江家へ)
5、乍恐書付奉願上候(代官所より青津・西青津村へ)
三、大川(阿賀川)鮏鱒留め簗場のこと
四、【福島県商工課水産係舊藩時漁業制度調】より
1、甲号(覚・郡奉行より佐瀬家へ)
2、乙号(和泉村のこと)
3、丙号(奥川、徳沢村山形家へ)
4、乍恐(徳沢村山形家より代官所へ)
5、御請書事(徳沢村山形家より代官所へ)
6、乍恐(献上鮏納の儀)
第九賞 こんな史料文書があった
一、こんな史料文書があった
1、覚 家引当証文
2、覚・お蔵入りの証文
3、覚・東山湯本の証文
4、相渡申杦引当証文
5、会津藩側医師馬島瑞延の妻 拝借願
6、田代組島村社人武藤薩摩守(武藤家へ縁組)
7、旧給田耕作と肝煎復帰願
8、乍恐以書附奉願上(当村肝煎り願村人署名)
9、乍恐以書付奉願上候(五ヶ村組合)
10、河沼郡会津坂下町大字福原の検地帳について
11、壱年切御抱夫丸御請状之事
12、乍恐以口上書奉願候(川除普請)
13、乍恐以書付御訴訟
14、乍恐以書付御願上候
15、覚(水戸様の領分までの天朝御触面)
16、乍恐以口上書奉願候(貧人同前の御貸米願)
17、乍恐奉言上候
18、被下置度橋御材木奉願候(越後街道の橋・当村)
19、乍恐以書付御上候(伊勢講中)
20、差上申御請書之事(他藩手間取り通判願)
21、覚(縁組の達し)
22、手紙(上状組頭)
23、坂下代官所よりの達し、(新年度の村人への申渡し)
※註地方御家人「慶応年間会津藩士名録」※註当村のこと
二、当村の菩提寺関係史料について
1、焼失木御届
2、末寺所属願
3、約定証
4、檀家総代人ヲ定ムル手続
第十章 在所で藩主・藩士の鷹狩史料
一、坂下在所での鷹狩りについて
1、鷹狩宿割り下書き
2、鷹狩藩士宿割
3、献立
4、買物
※註差上一札之事 西軍の来襲・屋敷分捕・焼払の件
あとがき
【参考史料・引用文書】
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